伊勢大神楽
阿倉川(あくらがわ)は古くから鞍久良川、阿久良川、飽久良川、安久良川などを用字として使われてきました。最も古い記録として鎌倉時代の書物『神鳳抄』には「飽良河御厨」と記されています。また海蔵神社や海蔵川などの「海蔵」は海女(あま)さんと同じく海を「あ」と呼び「海蔵(かいぞう)」は「あくら」と読めることが伺えます。海の蔵ですから海との関係性が深く川辺に海女さんが収穫した海産物を納める蔵が立ち並んだから「海蔵」だったそうです。
江戸時代初期までは東西阿倉川は「阿倉川村」でした。しかし17世紀ぐらいに東西に分離したと思われます。記録によると18世紀初頭には八代将軍吉宗公の御側用人・加納久通氏が東西阿倉川を治めています。その折、東阿倉川に陣屋を置きました。伊勢大神楽の太夫たちの家も陣屋付近に存在。現在でもその子孫の方々がお住まいになられています。
旧東阿倉川村字宮之前
須賀神社の祭神は月読命。大水の際に漂着した御神体を祀ったのが始まりです。旧西阿倉川村の御厨飽良河神社が「西之宮」、須賀神社は「東之宮」と呼ばれました。高之宮社も本社境内に祀られていました。
旧東阿倉川村字宮之内
創立年代は元和三年(一六一七)以前と伝える。もと牛頭天王社と称したが明治三年飽良川神社と改称。明治40年、海蔵村大字東阿倉川字宮之内、村社飽良川神社境内社山神社ほか六社を合祀。更に四社を合祀の上、海蔵神社と改称の許可を受ける。昭和二六年、多度神社設立により、同社祭神天津彦根命を減祀。
旧東阿倉川村(南條)
江戸時代、南條には加納藩の陣屋がありました。
付近に石川宗太夫、木村七郎太夫、池田茂穂などの太夫たちが軒を連ね、まさに伊勢大神楽の本拠地でした。
旧東阿倉川村字鎮守木(北條)
修験者(山伏)の集団が居住していたと伝えられています。八幡神社(祭神・品陀和気命)がありました。